撮影:大洞博靖
egglige
About egglife
asamicro主宰のダンスカンパニー。
幼少期の記憶や事実に基づく現象から着想を得てオリジナルストーリーで踊りを創作する。HIPHOPダンスで得た瞬発力や低重心を活かしジャンルレスなダンサーと共に個のあり方、得意分野を見つめ、即興に眠る自分らしさを大切に展開、観客と共に自己肯定を見つめ合う。中毒性ある振付とテンポある構成が特徴。またストリートダンスで培った身体で劇場外のパフォーミングアーツを得意とする。
Dance company choreographed,directed and structured by asamicro.
The choreography, based on hip-hop dance, is fast-paced and addictive. Performs with humour alongside artists from a variety of genres. It is a dance play without dialogue.
work
2023-2024
海におはぎを投げる日/
Day of throwing OHAGI into the sea
初演(2023/9) 豊岡演劇祭2023フリンジセレクション
再演(2023/12)SCOOL
dancer cast:asamicro/TAIKI(TERM-INAL/NovelNextus)/山中芽衣/北川結(モモンガ・コンプレックス)
/ 小畑仁(演奏)
テクニカルサポート:庄子渉
舞台美術:日原聖子(現代美術家)
特殊照明:鈴木泰人(現代美術家)
再演(2024/55.6)DANCE Scrum2024!!! KAAT神奈川芸術劇場
dancer cast:asamicro / 山中芽衣/TOMOKI / ChiChi / 小畑仁(演奏)
舞台美術:日原聖子(現代美術家)
「海におはぎを投げる日」
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【作品あらすじ】
asamicroの祖母の人生に焦点をあて、抽象的な振付とリズミカルでエネルギッシュな動きで展開する台詞のない演劇的なダンス作品。
昭和初期の神奈川県横須賀市に位置する浦賀漁業には1年に一度、漁師たちの業務安全を祈願して海におはぎを投げる風習があり、浦賀漁業の漁師の娘として生まれた祖母も、幼少期からおはぎ作りを手伝い振舞っていた経験があります。
ジェンダーの差異や存在とは何かが問われる中、日本の漁業の世界では今も尚、区域によっては男性のみの仕事とし、女性一人で漁港へ入る事は認められておりません。昭和初期に生まれ、仕事に生きた祖母がおはぎを振る舞う事で得たキャリアと孤独、そして私自身の暮らしの中で大切にしている体内時計や自然治癒力といったテーマをストリートダンスで培った身体性を活かし、エネルギッシュにそして時に静寂に、他者を感じ、どこまでも広がる海を見つめながら最も個人的な希望を祈り、願い、大きくて小さな自己愛と生に光を当てた作品です。
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撮影:前谷開
asamicro
循環と境界の遊び - 『海におはぎを投げる日』
漁師町というのは封建的なのだが、日常生活においては、意外と女性の立場が強い。と、よく言われる。何せ男たちは夜が明ける前から漁に出て、朝のうちに帰ってくる。昔の漁師は昼頃には仕事を終えて酒を飲み始め、夕方にはもう酔っ払って寝ていた、と、漁師町ではよく冗談めいて言われる。すると当然、家の周りのことをは元より、獲ってきた魚の加工なども、女性が担うことになる。陸地にいる家族は男たちの一番カッコいい海での姿を見ていないので、尊敬を集めているのは、どちらかというと女性の方なのだ...ということになっている。海では命がけで魚を獲り、大黒柱の役割を果たしながらも、陸に上がってしまえば無力化された家父長。落語的なキャラクターだ。夫の安全を祈り、恭しくその帰りを待ちながら、時には夫を圧倒するような力を持ち、家族や共同体を支える女性。これは落語というより説教節や浪曲だろうか。漁師町では、そういうキャラクターやファンタジーが、当然そんなに牧歌的ではない強固なジェンダーロールを支えている。海に暮らすというのは、そういうファンタジーと戯れながら、境界線と向き合い続ける営みに他ならない。
『海におはぎを投げる日』はまず、asamicro のソロで幕を開ける。緞帳幕のように天井から吊るされた網。それがゆっくりと持ち上がるなか、波の音が聞こえてくる。おそらく小豆で奏でる波ざるの音だ。海に「おはぎ」を捧げるのは、もしかすると、小豆のさらさらという音の連想があるかもしれない。集めると、海のような音を奏でる実り。それを海に還すことで、また豊穣を祈願する。胎児のような姿から徐々に動き出す。asamicroが他の作品でもモチーフにしている、朝、目覚める人の姿でもあるだろう。どこか神楽や日本舞踊を思わせる水平的な動き。強固な上半身、低い重心。抑制された動きから徐々に、急ブレーキをかけながら観客を軽やかに裏切るヒップホップの身体性が現になってくる。
そこにTAIKIが加わる。手拍子を打つ。どことなく、身体を清めるような振る舞いにも見える。二人のデュオ。クライマックスは、舞台をざっくりと斜めに分かつように敷かれたLEDチューブ(夜の海に光るホタルイカを連想するのは、あまりにナイーブだろうか)を挟んでのダンスの応酬である。デュオという表現は、男女の性役割と切り離せない。バレエ。タンゴ。アステアとロジャース。asamicroが片側に、TAIKIがもう片側に踊るパートは、否応なしにそういうデュオの歴史を連想させる。それは、漁に出て海をその居場所とする男たちと、陸でその帰りを待つ女の線引きにも見える。しかし、ここではその二人を分かつ境界、そして二人の距離自体が踊りに昇華されている。近づき、離れ、時に肩を組み、その境界線の存在自体に遊んでいる。
北川結と山中芽衣のデュオが続く。身体の制約そのものを踊るような、ユーモラスな動き。しかし、明滅する蛍光灯の光のなか、どこか不穏な空気が張り詰める。二人が首を大きくかきむしり、手に吐き出した何かを客席に見せびらかす振り付けを反復し始めると、不穏さの予感が確信に変わる。会場の奥、壁に向かって設置された小さな階段をゆっくりと登り、倒れ、床を転がる。それを繰り返す二人。反復するほど背中が折れ曲がって疲弊していくその姿は、老い行く身体の表象にも見える。
再びasamicroとTAIKIが加わり、4人でのシーン。4方向から同じ振り付けを舞う姿は、やはり神楽を連想させる。豊穣を願う儀式の模倣だろうか。勢いの良いビートに乗せて、4人の踊りが展開される。作中もっともエネルギッシュな場面であり、一つのクライマックスだが、4人の身体は痙攣を伴い、決して一筋縄でない。北川とTAIKIが向かい合う。二人の手の動きがなぞるのは、多分、おはぎを作る様子だろう。あるいは、新たな命の誕生のメタファーでもあるのかもしれない。性行為に臨むとき、身体は死をシミュレートしている。心拍数が上がり、瞳孔が開き、激しく発汗する。夕暮れ時を思わせる光のなかで向き合う男女の姿が、新たな命の誕生には常に死の模倣が伴うことを観る者に強く意識させる。
歌が挿入された後、ダンサー全員が靴を手に履き、4足歩行で動き回る。「初めは4本足...」のスフィンクスの謎かけを連想させる。一列に並び、靴を脱ぎ、足元に揃える。入水するかのように舞台奥へ向かっていく。そして再び、漁師網が下ろされるなか、asamicroのソロで幕を閉じる。胎児が次第に老い、死に向かっていく。朝起きた人が、再び眠りに着く。潮が満ち、そして引く。
4人が入っていくのは、作品の着想となった風習のある浦賀の海だろうか。浦賀はちょうど東京湾の入り口の境界線上に位置している。満ちるときは東京湾の方に、引くときは太平洋の方に向けて発生する潮流が、浦賀の人々にとってどれくらい、線を跨いで通り過ぎていくもののように感じられるかは分からない。しかし、単に押して返す波ではない、湾に出入りする水の循環が、その漁師町にかつてあった風習に、そしてその風習に着想を得て作られた本作に、確かに息づいているように思われる。
内海に入り、東京湾を回って太平洋に出ていく、潮流の循環。比喩でなく、生命自体の循環作用である。しかし、同じ波が二度来ることがないように、それは反復しながら少しずつ岸を削り、砂や魚や船を運ぶ、新しいものを招き入れ、やがて送り出す循環である。海は常に、海と陸の間の境界線を書き換え続けている。『海におはぎを投げる日』は、海そのもののように、そしてそこに暮らす人々のように、その循環の中、境界線の上で遊んでいるのだ。
評:山田カイル