おはぎを振舞う日|A day of hospitality with home-cooked treats(OHAGI)
おはぎとわたしとあなた
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私があんこと向き合わざるおえない理由の一つに父方の祖母の生き方と孤独と意志が存在する。
私の祖母であるヨネコは、神奈川県横須賀市にある浦賀に、漁師の娘として生まれる。昭和初期の当時、現在の何倍も多くの漁獲量のあった浦賀漁業の風習として、1 年に1度、毎年12 月1 日になると、漁師たちの業務安全を祈願して海におはぎを投げる風習が存在し、女たちは大量のおはぎを作り、ヨネコは幼子の頃から手伝っていた経験がある。その為、今でも祝いごとやお彼岸があると、大量におはぎを作り近所に配っている。
祖母はのちに漁師となった祖父と結婚し、30代の頃に自身の小料理屋「和風スナック松」を営んでいた。12 席ほどの小さな店は、常に賑わい赤字になったことはなかったという。
浦賀漁業に勤める祖父母の家庭は、商売繁盛高級取りとして裕福でありながらも、漁業組合の会合などの付き合いも多く、支出が嵩む日々だった。そんな状況も相まって祖母の店、和風スナック松では“安月給のサラリーマンでも1,000 円で楽しく飲めて笑顔になれる店” をコンセプトに、お酒と魚のつまみをメインに小料理を出していた。祖母は
「ここは私がつくった世界で、大変だったけどお客さんが笑ってそれぞれ時間を過ごし またねー と帰ってゆく空間は本当に楽しくて、私の生き甲斐であり心が踊る日々だった」
と話した。
のちにこの店は、経営には問題がなかったが、家族との時間を優先する為、泣く泣く閉店させ、祖母も漁師の妻として働いた。漁業による釣り船のお客さんの集客などは、店での交流関係を生かし、祖父を浦賀漁業組合の組長にまで成長させ、夫婦で功績を残し、裕福な生活を送っていた。その後、私の父が生まれるが、私の父は 「あんこは嫌い」、「おはぎは食べられない」と言っていた。そして、家庭の愛を知ら
ないで育ったと私は父から聞いた。その後、父は母と結婚し私と妹が生まれ四人家族となるが、嫁姑の関係は穏やかなものでは無かった。母は祖母からいじめられていた。
そして私の家族は解散した。
祖母は今、祖父が他界した家で独り暮らしている。「仕事が生き甲斐だった。とにかく必死に働いた。祖父の女や酒にもどうにか耐え抜き働いてきた」そんな風に話す彼女はたくましいが、私は祖母の言葉の中に、少し寂しさと後悔も感じながら、祖母からあんこの炊き方、おはぎの作り方を学びに行った。色々な感情はあるが、祖母の生き様や周囲に対するサービス精神に比例して生まれている孤独が気になり、無視は出来なかった。
現在の彼女にとって、おはぎは自身の自慢の作品であり、振る舞うことで取れるコミュニケーションを生き甲斐にしていた。自己肯定感を高め、そして自身を癒しているようにも感じた。
この一連のストーリーを知り、孫という立場で、そしてダンサー・振付家として、振舞うことへの執着や、社会・組織・家族・といった枠で求められる存在価値を見つめ、地球に生きる一個人としての生き甲斐と孤独について、そして自然治癒力について あんこ を入口として振る舞い、パフォーマンスしたいと考えている。
2024 年 asamicro
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